1. はじめに:アナログ時代の「物理的限界」への挑戦
かつてオーディオマニアを震え上がらせた、Telarcの1978年録音『1812年』。本物の大砲を用いたその凄まじい低域信号は、アナログレコードの溝を物理的に蛇行させ、並大抵のカートリッジでは「針飛び」を起こす伝説の盤として知られていました。
私自身、かつて SHURE V15 TYPE III や Victor MC-L1000 でこの難所に挑んだ記憶が鮮明に蘇ります。しかし、時代は移り、戦いの舞台は「物理的な溝」から「デジタルの演算」へと移行しました。
本記事の解析に使用した計測システムの詳細や、binaural.jpがMusic RTAを行う目的については、こちらの[カテゴリー説明ページ:Music RTAの背景]をご覧ください。
2. 波形比較:1978年盤と1998年盤の決定的な違い
今回、自作RTAソフトとmoOde Audio(SoXリサンプル)を使い、1978年録音(旧盤)と1998年録音(新盤)を比較検証しました。
- 1978年盤の衝撃 (
First_Cannon_1978.png): 拡大波形を見ると、最初の大砲の衝撃音ですでに信号が 0dBFS(デジタルフルスケール) に到達し、波形のピークが平坦に潰れています。これは「クリップ」そのものの挙動です。



- 1998年盤の進化 (
First_Cannon_1998.png): 一方、20年後の新録音では、マスタリングに余裕が持たされており、波形の頂部が美しく保たれています。デジタルの特性を熟知した現代的な処理と言えるでしょう。



3. RTA分析:CD帯域外に現れる「謎の成分」
CD音源(44.1kHz)を192kHzへアップサンプリングして分析したところ、興味深い現象が観測されました。
- 旧盤のRTA (
1978_0.0dB.png): 本来、22.05kHz以上の成分は存在しないはずのCD音源において、大砲の箇所で 22kHz以上の広帯域にわたる高調波成分 がはっきりと現れています。

- 新盤のRTA (
1998_0.0dB.png): 対照的に、新盤では22kHz以上は完全にカットされており、教科書通りの挙動を示します。

4. DSP的考察:なぜ「存在しないはずの音」が現れるのか
この旧盤で見られた高域成分は、録音に含まれていた超音波ではありません。その正体は、「デジタルピークへの到達」と「リサンプリング演算」の相互作用による非線形歪み であると考えられます。
リサンプラー(SoX)がアップサンプリングの補間計算を行う際、0dBFSに張り付いた波形を処理しようとして演算上のオーバーフロー、あるいは補間アルゴリズムの限界から生じた高調波歪みが、高域のレベルとして可視化されたのです。
5. 解決策:-1.5dBのアッテネーション
この仮説を証明するため、旧盤をリサンプル前に -1.5dB アッテネート して再度検証しました。
- 結果 (
1978_-1.5dB.png): 驚くべきことに、あれほど派手に出ていた22kHz以上の成分が、跡形もなく消失しました。

リサンプル処理の前にわずかなヘッドルームを確保するだけで、演算上の「無理」が解消され、正確な信号処理が可能になることをこのデータは物語っています。
6. まとめ:ハードからソフトへ、変わらぬ「攻略」の楽しみ
かつてカートリッジの追従性を競った『1812年』は、今やデジタル信号処理の精度を問う「リサンプラー殺し」の音源として、新たな魅力を放っています。
「デジタルは劣化しない」と言われますが、その演算過程にはまだ多くの「罠」が潜んでいます。binaural.jp では、今後もこうした「見えない音」の正体を、RTAという眼鏡を通して明らかにしていきたいと思います。
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